昭和48年10月26日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
人間の幸福と云う事は、金でもなからなければ、物や人間が出来ておると云う事だけで幸せになれる物では無いと。真の信心によらなければ、人間の幸はありえないんだと云う事を教えて頂いて、神を杖に付けば楽じゃと云う事は、勿論神と云う事は真の信心と云う事だと思うんですけれども。真の信心を頂かずして、どんなに知恵があっても力があっても、又はお金があっても物があっても、如何にどの様に所謂恵まれた状態下にあっても、楽じゃというおかげには繋がらない。
あればある程、力があればある程、金があればある程、物があればある程、そこには必ずある悩みと云う物は伴うものだ。難儀と云う物は伴うものだ。是は私共の周囲を眺めて見るとそれが解り間すですね。あっちはあれだけ金があるけん心配はあるまいと思うけれども、本当に血を血で洗う様なです、このう人間関係の上に難儀をしておられると云う家が何軒もあるでしょう。もうある人がお金を持ってあるばっかりに、所謂幸せでないと云う人がね。是はもう確かにそうです。
あの人の様に頭の良い人、あの人の様に力のある人、それがなら決して幸せに繋がっていないと云う事。私共はややもすると、地位さえ出来れば名誉さえ持っておれば、お金さえあればいや健康でさえあれば人間の幸福だと思うて、一生懸命健康の事に注意する。一生懸命金を貯める事に精進する。一生懸命地位やら名誉やらと、言うならば人を蹴り落としても、そういう地位名誉を言った様な物を獲得しょうとまぁ努力する。そして一生が終わる。一生懸命にやれておる時は、まあそれで紛れておるんです。
金を貯める事を楽しんで、けれども愈々自分がいうなら、人生の終着駅と言う様な所に立ち到った時に、ああ金でもなかった物でもなかった。知恵力でもなかったと気が付くんです。だから信心とは其処ん所をですね、もう縁に任せて、信心をお互いするので御座いますけれども、それによってその、其処の所を解らせて貰う悟らして貰う。そして成程、神を杖に付けば楽じゃという境地を開かしてもらう。其処から始めて、人間の幸福の原点がそこにある。
そこからですなら金も又必要物も又必要、健康は又尚更の事だと云う事になって来るのですね。根本の所をね。根本の所を解らなければ、ならそれで信心ば頂いとりますから、皆んなその様な心掛けなり、その様な状態であるかというと、そうではないのに又驚く。信心頂いとっても、金儲けさして貰いたいばっかり、信心しよるという人があるかも知れんね。とにかく健康になる。
そのおかげを頂きたいばっかりに信心、成程そこから信心の言うならば信心の門を叩くとこう言うが、信心の門を潜らせて頂く様なもんです。そう言う様なお互いの悩みとか苦しみとかと言った様な事が。ね。昨日合楽食堂の中村さんが、御祈念中に信行、信門と頂いた。信行とは信心の行、信門とは信心の門という事であります。字で教祖のに載っとる信行信門と。信心の言うなら、門を叩くというかんね、それに入門するというか、それはまあ殆どの人がです、そういう悩みと云う物を持ってある。
難儀と云う物を感じるからそこから解脱したい、助けて貰たいというのが、矢張りその信心の矢張り、入口なんです。ところがその信心の門に入れば、必ず信行が伴うのです。信心の行が伴う。信心、信行とはそんなもん。只、信心に入ってさえおればよか、なら金光様の信心しよりますから良えと云う事ではない。絶対に信心に入れば信心の行がいるのだ。その信心の行の焦点がです。
今日も商売繁盛のおかげを頂きたいばっかりに修行をすると、病気を治して貰たいばっかりに修行すると云う事に終始したんではね、いわゆる神意、神を杖に付けば楽じゃと云う事になって来ないのです。成程おかげを頂いて商売繁盛しよります。おかげを頂いて無い命を頂きました。是では人間の所謂、神を杖に付けば楽じゃと云う事にならんのです。神を杖に付けば楽じゃと云う事は、信行が出来なければならん。信心の行が出来なければならん。そこでなら信心の行とは、どう云う事かと。
昨日は二十五日の信心研修会でした。その中でもお話をした事ですてけども、昨日私が、一昨日から昨日にかけて、お取次をさして頂いた人の、例をとって話したんですけれども、或る難儀な問題、難儀な問題というか難儀な事に直面しておる。それももう切羽詰った様な難儀に直面しておる。その事を私はお取次さして貰よりましたら、あのう御心眼に鵜の鳥がね、魚をくわえておる所を頂いた。そしてその魚を今度は取らずにそれを大きな網の中に入れる所を頂いた。網ちゅうが大きな綱の網ですね。
鵜なんか飼う時には、あんな網なんかに入れるのじゃなかろうか。所謂魚をとらせるのじゃなくて、鵜の鳥の方をとるのだと言う事を頂いた。だから魚をとると云う事私はおかげの事だと私は思うですね。所謂ご利益魚なら魚病気が治りたい、人間関係なら円満に行きたい。金銭関係ならば此処にお繰り合わせ頂きたいというのがその、鵜の鳥に魚をとらせる事だとこう思うです けれども体も悪いかろうお金もなかろう、人間関係も例えばそういう、難儀の問題と言う物をそのまま信行とせよと云う事なんである。
それをそのまま信行としてです、その所謂目先の健康とかお金とかと言うおかげではなくて、そのもう一つ向こうの所謂鵜の鳥の方をとれよと云う事なんです。いやその鵜の鳥の方を下さろうとしておる。魚を下さろうと言うのではなくて鵜の鳥の方を下さろうとしておるのだと云う事。だから鵜の鳥さえとりゃもう後はもう一匹二匹じゃない、なんぼでも取れる訳です。だから鵜の鳥の方をやりたいばっかりのこの難儀だというと、して見るとこの難儀と云うとして見るとその難儀と言う事はその難儀が頂きたい。
頂きたいと言うだけではいけないと言う事が解る。その難儀を通して言うならば鵜がくわえておる魚を貰うのじゃないその鵜の鳥そのものを貰うのだ。それが私は信門だと思う。いや信心に入らせて頂いてその信行というのは、其処ん所を頂かしてもらう行を信行だとこう思う。信行信門でないなとです、神を杖に付けば楽じゃと云う事にならんのです。只是を一つ貰ったら楽になると云う事じゃ決してない人間は、所が一つ解っただけじゃいかんね。所謂本当に神を杖に付けばという真の信心を頂くと云う事がです。
所謂信行、信門であり、其処から始めて神を杖に付けば楽じゃという。そこでなら神を杖に行けば楽じゃという、楽と云う事はどう云う事か、なら神の心を心とすると云う事なんだけれども、なら、神の心とはどう云う事なのか。結局信に繋がる、心一つに繋がって来る。成程教祖様が、是を見える所に貼っておけというて常に私共が申しておる天地書附ですね、信者に書いて渡されたと云う事を、この天地書附は額にして上げさせて頂いて、此処に座ると一番口に天地書附。
より見える所に貼っておけと仰るから、一番私に取っては見良い所に上がっておる訳なんです。だから私は見よるとたんにですああ天地書附、天地書附の心と言うのは、所謂自分の芯(しん)なんです。所謂心を大切にすると言う事なんです。魂を愈々大切にすると言う事なんです。しかもその魂と言う物がね、清まれば清まる簿と、楽になるのである。しかもその魂が清まれば清まる程その魂だけがあの世にももって行けるのである。あの世に持って行けるというが、あの世ではもう魂だけの問題だ。
清まっておかねばあの世が恐ろしい事になるのです。和賀心に和らぎ賀ぶ心に。其処でですその心を大事にすると云う事がです、魂を大事にすると云う事が信心であり、それを大事にし続けそれを大事にした心を、頂き続けると云う事が神を杖に付けば楽じゃと云う事です。今朝から私起きて毛布と布団を着て寝ませてもらっておる。私は丹前を夜着を着らないと、肩がすっすうする。そこで私は何回も家内に丹前を出しておけとか、夜着はまだ出来ていないのかと云うのですけどもまぁだ出来てない。
まぁだ出してない今朝からも肩が、愈々今日はいっちょ出してもらわな肩が寒うして堪えんち、と申しました。お便所に行きましたらお便所に必ず私は、洋式ですから度んび度にそれを拭かなければならない拭き物のその布巾を何時もそこに置いとく。それをここ置いてない。それからそう云う事も何回も置いておかねばいけないと言うとるけれども、置いてないから、また今日も置いてくれよと言うて頼む。そう言う事を頼みながら言いながら、是は家内を責めておるのではないと言う事を確かめて言うんです。
たったそれだけの事だけれどもですね、お前はいくら言うたっちゃ言う事を聞かんねと言うもう内容があったら、是は責めておる事なんです。だから責める心じゃないんだ。責める心じゃないんだと確かめて置いて頼む、それがなら言う事を聞かんなら、五回でも十回でも頼む事でしょう。そすと今度は家内の方にすると、まあ本当に先生ばっかりはうるさい、せからしかと、受ける心いやどうも済みません、忘れて済みません、この心なんだ、その心があれは良いのだけれども。
ハイと言いながら、しからしか何べんでも言いなさるというのがあったらそれは心を大事にしている者の生き方ではない事になるのです。ね。同じ事柄なんです、問題は心なんです。私は家内を責めて夜着を出してくれ、丹前を出してくれと言っておるのじゃない頼んでおるのだ。だから責める心はさらさらない。なら家内もそれをです、まあうるさい何べんもせからしか一辺言いなさら解ると言った様なものでなくて、矢張り本当に忘れとるとじゃから済みません、忘れてばっかりおってという。
口では言わんでも心の中の内容なんです。それにハイハイと口では言うておっても、せからしか何べんでんと言うたらもう心を大事にしておるのではないのです。もうそんな些細な事なんです。心を大事にすると言う事、金光様の信心を大事にすると言う事はそれなんです。心です。だから今思うておる事、その心と言う物がです、果して神様の心に適う心かと、どうかと云う事を何時も確かめる事なんです。信心さして頂いとる者は何時もです。
だからその信心の焦点願目と言う物をです、成程信心の門を叩いた信心に入門したそこをです、どうぞ今日も繁盛のおかげを頂きます様に、健康のおかげを頂きます様にと言うて、それは願いもするし、けれどもその根本の所はです、それが目的ではなくてその事を通して鵜の鳥が魚をとるおかげを頂くのじゃない。鵜の鳥其の物を頂くと言う事にならなければならない。でないと例えどうぞお金のお繰り合わせを頂きます様にばっかり言うてお繰り合わせ頂いて、おかげ頂いてもそれは金を杖に付く事になるのです。
人間の幸福に直結する物は心なんてす。どんな場合であっても、例えば、責めたり憾んだり、妬んだり、憎んだり、そう言う様な心が私の心の中からない。何時も喜び。私は今度東京へ参りますして帰ります日に、北京時代の友人を探しあてましてね、電話帳でそれで私よりも十程、友達というても飲み友達でしたが。子供がないのです。兄弟も亡くなってしまっておる。それで奥さんが中々のやり手で看護婦会をしておられた。
だから、看護婦会で見て貰ったけども解らない。それでその永江さんという人ですから永江信次郎という、それでまあとにかく、沢山のこんなに厚い、とにかく東京の電話帳がね、それをまあようやく探しあてて、それからあのう稔さんが一から十まであのう、とても私どんだけでは探しあてられなかったけれども、目黒区の何処どこにおると云う事が解りましたから、何時間も掛りで参りました。
それで前の晩に電話かけました所が、何かどっちかと言うと、まあ冷たい感じで、はあ、あの、大坪さんって方は、北京時代のお友達と云う事で話は聞いとりますと云う様な電話じゃった電話では、そして永江さんはどうしとられますでしょうかと聞いたら、具合が悪くて休んでおりますとこういう。なら奥さんはどうしよんなさいますでしょうか言うたら、もう七年前に亡くなられましたとこう言う。
それで私はあのー子供はなし、身寄りはなし、難儀しておるのではないだろうか、困っておるのではないだろうかと思いました。そしてならとにかくあのー明日の晩、飛行機で九州のへ帰りますから、見舞いだけにでも出来ますからというたら、はあちゅたる風なまあーもう一向に、あんな風ならもう行くまいかという感じです普通で言うなら。あのーでした。けれども見舞いにだけは行きますからというて、見舞いにまあお見舞いを持って行きました。そして探しあてましたら、立派なお家に住んでいるのです。
そしてやっぱり看護婦会をやっております、とってももう家内じゃないけども。どうしてあげん家内、一所にテレビば三台も据えて寝んでいるのです。矢張り具合が悪くて、けれども本当に幸せそうです。そしてその夕べ出た人は、あのう今度奥さんが亡くなってもらった奥さんらしいです。若い奥さん、それで実際今度会うてみると又大変親切な行き届いた人なんです。もうあんたの幸せそうなあれ見て、私も安心したというて男泣きに涙を流して喜びました。
私も嬉しかったですけれども、そう云う時にですね、あのう本当あのー幸せそうにしておっても難儀であっても、私の心を使っておる心が何時も有難かった。不幸せであったならああもう、例えば少し位の金なら置いて行こうと思う心も自分ながら有難いです。今度幸せな風をししているのを見てから、もう、愈々自分の幸の様に感じたんです。それが又自分で有難いです。
ですからどちらへころがしても、自分の心が自分で拝みたい様な心を目指す事が信心なのですから、ね。ですから自分が今、思うておる事、嫌な奴じゃないと思うたら、もうそういう心ではおかげにならんのですね。だからそう云う心を何時も自分で見極めさして頂きながら、もう今自分が思うておる事が自分で拝みたい様な心の状態をいつも持ち続ける事が、神を杖に付く事です、ね。
楽でしょうが。どんな場合であっても必ず有難いのですから。神を杖に、そう云う楽な心に、金も物も、又は地位も名誉も願うならば頂けるのであって、いやそれを頂けた時に、私共は人間の幸福を感ずる事が出来るのであってね、決して金や竹や木を、いわば杖に付いたんでは、金の杖を付けば曲がる。木や竹では折れるのである。神を杖に付けば楽じゃとその楽だとという心がです、何時も有難いと云う心。
今私が思うておる心。まあ本当に自分は優しい心を持っておるのなあ、自分は本当に情深い心だなあと、自分で自分に心に、自分の心に見とれる様な心をね、愈々作って行く事が信心なんです。それを人が儲け出したちゃ妬む心が生まれる。人が困っとると言えば軽蔑する。そういう心ではおかげにならんのです。神を杖に付いた事にはならんのです。所が往々にして私共の心にはです、それこそ憎む妬む、恨むと言った様な言葉である様に、そう云う心も又あるのです。
だからそう言う物をです、私共が取り除いて行く事の為に、私共が信行がいるのです。信心とは日々の改まりが第一ぞ、本心の玉を研くものぞという、信行がいるのですね。信心の門に入ると云う事は、おかげを受けると云う事ではないと是は、神をを杖に付けば楽じゃという程しの、心を自分の心の中に頂かしてもらえれる、何時も自分の心を見極めさしてもろうて、ああ、こう云う心では神様の心には通わない。いやこう云う心の状態が、神様に喜んで頂く心であろうとそういう心をです。
有難いと愈々高めて行く、深めて行く信心。是も昨日話した事でしたけれども、或る方がお夢の中で、もうまざまざとお知らせを、或る人の事を頂いた。もう本当にびっくりする様な事、その人は大変廻りを作っておるし、又は家の廻りも持っておる人であるね。その人がそう云う事にでも、もし夢の中にでも現れて来る様な事であっては、大変な事なんです。それでその事のお取次を願われたらですね。東京に参りますと、あのう普通のあの道がこうあります。
その上をあのうまた高い道、所謂高速道路ですか、上を走っております。その下には又地下の、地下道がありますね。いうならば同じ方向に行くでもです、いや三つの道があるんです。だからその真ん中の普通の今の道を辿りよったら、夢の中の現れて来る様な難儀な事に行き当たるのたけれども、此処で自分の心を高める、此処で自分の信心を高めて、上の道路を通りゃ、そこは通りぬける事は出来る。
自分と云う物を見極めて、自分をもっと深めて、地下の道を通って行きゃそれはそういう難儀な事に出合わなくて済む。運命と言う物は、そこに定められておるけれどもです、高めた道を又、自分を深めた道を歩く事によって、言うならばそう言う運命から逃れて新たなよい運命を開く事で出来るのだという御理解を頂いた。だからそこに問題がお互いが直面しておる時には、それを自分の心を高める、又はそれをもっと掘り下げるという生き方をですさして頂く所から、掘り下げる所から。
私の様な者がと云う謙虚な姿勢が出来るのであり、高度な心と言う物が高められて行くに従ってです、所謂神心というものが愈々強うなって行くんであります。それが信心です、それを頂く為の信行です。所謂中村さんが頂かれたという、信行、信門と云う事を具体的に申しますと今日の御理解五十七節、金を杖に付けば曲がる。木や竹は折れる。神を杖に付けば楽じゃと云う事になるのですよね。ですから何時も自分の心と言う物をですね、浅ましいこんな心、もう本当に自分ながら嫌気がさす様なその心。
その心をしっかりと見詰て、その心を一つ研いて行こう、改めても行こう。神様にお喜び頂ける心の状態になった時に、始めて私共の心は楽なだ。助かるのですね。神を杖に付けば楽じゃと云う事は、そう云う事なんです。只神様に縋ってさえ居ればと云う事ではないのです。自分の心を何時でも拝める心の状態を私は、把握した時にです神を杖に付けば楽じゃと、ね。是ならば幸せになれる。是ならばおかげが受けられるという、確信がもう愈々心の中に募って来る訳なんですよね。
どうぞ。